ふるさと足尾の歴史

ふるさと足尾の歴史

昔の地図

 古河足尾歴史館に見学の打ち合わせに伺ったところ、入口で古い地図を見つけて、購入してきました。今は、学校の玄関ホールに掲示してあります。
 大正5年(1930年)「足尾町商業案内便覧図」というタイトルが付いた地図です。裏面には、足尾町などのお店の名前などが印刷されています。
 地図を見ると、狭い谷筋のわずかな平地に、選鉱場、精錬場、発電所、鐵道、策道などの鉱山施設や鉱山社宅、お店が立ち並び、町全体がひとつの工場のように見えます。今から90年前の足尾の様子がよくわかる貴重な地図です。

  

渡良瀬川

 本校の校庭の南側には渡良瀬川が流れています。
 (国土交通省 渡良瀬川河川事務所の資料から)
 渡良瀬川とその支流のほとんどは「皇海山(すかいさん)」を最高峰とする足尾山地から流れて出ています。渡良瀬川は、山地を小枝状に刻みつつ、谷や段丘を作りながら南西の方角に流れ、大間々から下流にかけては足尾山地と八王子山地のあいだを流れています。
 かつて渡良瀬川は、「太日川(ふといがわ)」と呼ばれ、およそ1000年前には現在と違うルートを流れていました。
 江戸時代になると徳川家康が埼玉平野の開発、舟運による東北地方との経済交流、江戸を守るための外堀を築くという施策を講じます。その開発の中で、1921年頃には利根川と太日川(渡良瀬川)を直結させる工事が行われました。これによって、現在の渡良瀬川は利根川最大の支流となりました。
 

足尾銅山⑤

 先日、古河足尾歴史館の館長さんが来校したときに、足尾銅山に関する資料をいただきました。その中の資料の中に、「足尾銅山が伝えた世界の最先端技術と文化」という内容の資料がありました。足尾銅山では、銅生産の効率化を進めるなかで、当時の世界の最先端技術を積極的に導入したそうです。
新技術①鑿岩機(日本人の体格に合わせて小型化を図り、改良が続けられて現在も世界へ向けて製造・販売されています。)
新技術②水力発電(自社専用の水力発電所を始めて稼働させ、明治時代に足尾地区の十数カ所に水力発電所が建設されました。)
新技術③選鉱(日本初の機械選鉱で、鉱石の銅分を効率よく回収したそうです。)
新技術④運搬(洋式技術が導入され、トローリー式坑内電車を採用し、ガソリン自動車第一号が走ったのも足尾銅山でした。)
               (「渡良瀬川と足尾山地」  国土交通省資料 より)

足尾銅山④

 近代化に貢献した足尾銅山(「とちぎふるさと学習」資料集  栃木県教育委員会より)
 1610(慶長15)年、足尾村の2人の農民によって足尾銅山が発見され、江戸幕府の直営の銅山となりました。17世紀後半には、毎年1,000t以上の銅が生産され、幕府の財政を支えました。江戸城や日光東照宮の瓦を製造したり、オランダや中国へ輸出をしたりしました。1877(明治10)年、古川市兵衛により、最新の技術や設備により鉱山施設の近代化が進められました。明治20年代には国内で産出される銅の40%以上を産出する日本一の銅山となりました。
 大正時代には、岩を砕くための足尾式さく岩機が考え出され、手で掘ることから機械で掘ることへと変わり、作業が早くできるようになりました。

足尾環境学習センター

 先週の18日に、5・6年生が銅親水公園内にある「環境学習センター」に行ってきました。本来なら、今頃、東京や神奈川方面の小学生が修学旅行として、環境学習センターや銅山観光へ見学にやってきます。学校から見える高い場所にある道路を観光バスが数多く通るのを見ることができるそうですが、今年はまだ一台も見かけません。
 環境学習センターは、平成12年に完成しました。足尾銅山の歴史を紹介するとともに、環境破壊と自然の大切さを学べる施設です。緑を失った足尾の山々や旧松木村などの歴史を写真や資料などで展示しています。
 子供たちは地元に住んでいるので、地図を見て自分の家を探したり、知っている施設との位置関係を調べたりしていました。映像や説明を見て、今まで断片的だった知識が少しずつつながり、知らなかった歴史的事実を知ることができたと思います。
 

とちぎの百様(ひゃくさま)

 県民の郷土愛の醸成(じょうせい)と本県のブランド力の向上を図るため、後世に残したい、大切にしたい、じまんできる本県の100の地域資源(ちいきしげん)を「とちぎの百様」として選定(せんてい)したそうです。その地図が学校にも届いています。
 百のうち足尾町にあるのは、29「足尾銅山」と93「わたらせ渓谷鐵道」の2つです。「足尾銅山」の感動ポイントには、「日本の近代化を支えた殖産興業(しょくさんこうぎょう)のシンボル」と書かれています。「わたらせ渓谷鐵道」の感動ポイントには、「トロッコ列車で渓谷(けいこく)のけしきを楽しむ」と書かれています。
  どちらも足尾にとって大切なものです。ほかにも足尾には、伝統があり誇れるものがたくさんあります。これから、このページで紹介していきます。
 

玄関にある宝物

 足尾小の玄関には、貴重な動物のはく製や昔の道具や写真が展示されています。その中に、閉校した学校で使われていた道具もあります。下の写真の右から「神子内小」「本山小」「原小学校」と書かれています。昔の学校で使われていた、大切な宝物です。
 

日足トンネルの長さは

 図書室で、「日光検定公式問題集」を見つけました。「足尾地域」の問題が21問ありました。第2問には、1978年に開通した「日足トンネル」の長さが何メートルかという問題です。本校の職員の多くは、このトンネルを毎日利用して通勤しています。
 選択肢は4つありますが、正解は2765メートルです。長いトンネルです。

足尾小学校の歴史③

  足尾小は明治6年(1873)本妙寺に仮設し、明治34年(1921)に現在の場所に校舎を建てました。校舎は何度か火災にあって、昭和35年(1960)ら全校舎が焼失しました。その後、鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成し、その時の教室は30教室、その他が15室もあったそうです。昭和48年(1973)の銅山閉山後、人口が減り、児童数が大幅に減少しました。
 学校に隣接して、足尾公民館がありますが、現在は一部を児童クラブが使用しているだけです。この敷地には、足尾高等女学校が建てられていた場所です。

足尾銅山物語③

 幕府直営の銅山として 
 順調に産出していた銅山にもかげりがみえ、銅のねだんが安く、山師という人たちを排除したため、一番とれたときからでは、十分の一にまで減ってしまいました。また、たびかさなる洪水で被害を受け、火事で1000件が焼けました。
 幕府は、困っている山元を救うために「銭座」の許可をあたえ、「寛永通宝一文銭」というお金をつくりました。この一文銭の背面に「足」の字がしるされたことから「足字銭」といわれました。1742年~1747年の6年間に、約2億千万枚もつくりました。このような幕府の保護政策にもかかわらず、銅山はきゅうげきにおとろえて、1844年頃には休山じょうたいになってしまいました。「足尾博物誌」より簡略化

 
  学校の近くにある記念碑「足字銭と鋳銭座跡」 

足尾銅山物語②

 精銅の生産が認められた国内唯一の銅山 「足尾博物誌」より(簡略化)

 幕府は、銅山奉行の代官所を設け、銅山を開発し、銅の精錬(せいれん)が行われていました。足尾の銅瓦は、江戸城、芝増上寺、日光東照宮などの建築にも使われました。
 1649年、足尾銅を江戸まで運ぶために、銅山街道(あかがね街道)がもうけられました。このころは足尾銅山のもっともさかんなときでした。1676年からは、オランダや中国にも出荷していました。「足尾千軒」と言われるほど、多くの銅山関係の人が住んで、大変なにぎわいをみせていました。 

    校内にある「黄銅鉱」

足尾銅山物語①

足尾町閉町記念「足尾博物誌」という本を読むと、足尾のことが様々な角度から書かれています。その中でも、「足尾の歴史は、銅山の歴史そのものといっても過言ではありません。」と書かれている「足尾銅山物語」から、足尾の歴史について御紹介します。

 「足尾銅山のはじまり」(小学高学年が読めるように簡略化)
 江戸の初め、備前の国の農民が発見したとする「足尾銅山のはじまり」

 足尾銅山は1610年に備前国(びぜん・岡山県)で生まれた足尾の農民、治部(じぶ)と内蔵(くら)の二人が渋川(しぶかわ)をさかのぼり、黒岩山に登って、銅を発見しました。江戸幕府は銅山を幕府が直接支配することにしました。黒岩山は、発見した2人の生まれた国の名前をつけて「備前楯山(びぜんたてやま)」としました。
 しかし、それ以前から、足尾の銅がほられていたという記録はありました。

山の神と孝行猿

 本校の玄関を入ると、様々な物が展示されていますが、その中でも、本校の元職員が製作した「銅山の守り神 山ノ神」と「孝行猿」が目に飛び込んできます。この置物も足尾小学校の安全を見守っています。

 
      山ノ神              孝行猿

足尾の地名の由来

 「足尾」の地名のはじまり 
 地名の由来として「ねずみの話」があります。むかし、「勝道上人(しょうどうしょうにん)」という僧侶が日光のお寺にいたとき、ある日1匹のねずみが粟(あわ)やひえの穂をくわえて、どこからともなくあらわれたり姿を消したりしたので、上人はこの山奥に、粟やひえの穂があるはずがないと不思議に思って、このねずみの足にひも【緒】(お)を結んで目印にして、そのあとをつけてみると、山のふもとの方に人家がありました。そこで上人はここを「足緒」と名付けたのが、のちに「足尾」となりました。上人はそのあたりは僧が修行をつむのに適している土地だと考えました。その後、上人の弟子たちがこの土地へ来て、修行をつんだり寺をたてたりしたのが足尾のおこりだと言われています。
 一方、学問的には、地形的なことから山の高いところや山のふもとの延びたところを「尾」ということや山の峰(みね)つづきを尾根とよんだりすることから、この地名がつけられたのであろうとみられています。
 足尾の近くに細尾(ほそお)や粕尾(かすお)としいう地名があるのも興味深いことです。また勝道上人とゆかりのあるねずみが入ったという「ほこら」が大黒橋のたもとにあり、現在は「波之利大黒天(はしりだんこくてん)」としてまつられています。                   (2006年発行 「足尾」より)  

足尾小学校の歴史②

 足尾小学校の図書室の後方に写真が展示されています。「足尾小に生きている学校」というタイトルが付いています。足尾小学校の写真のほかに、本山小学校・原小学校・神子内小学校・横根山分校・小滝小学校の写真があります。これらの学校は閉校などになったため、旧足尾町にある小学校は、足尾小学校だけになりました。
 

足尾小学校の歴史①

 現在の足尾小学校は児童数が少ないですが、昔の写真を見ると多くの児童が学んでいたことがわかりました。歴史と伝統のある足尾小学校について、これから調べて紹介していきます。

「足尾町 閉町記念 足尾博物誌」より抜粋
 学制発布の翌年の明治6年(1873)年8月、本妙寺を借用して足尾で初めての学校「足尾学舎」を開いたのが始まりで、創立当時の児童数は84名でした。その後、銅山の発展とともに児童数はうなぎのぼりに増え、大正末期から昭和30年代までの最盛期には1500~2000名を数えるマンモス校となりました。
 
  マンモス校だった頃の足尾小学校