ふるさと足尾の歴史

2020年5月の記事一覧

日足トンネルの長さは

 図書室で、「日光検定公式問題集」を見つけました。「足尾地域」の問題が21問ありました。第2問には、1978年に開通した「日足トンネル」の長さが何メートルかという問題です。本校の職員の多くは、このトンネルを毎日利用して通勤しています。
 選択肢は4つありますが、正解は2765メートルです。長いトンネルです。

足尾小学校の歴史③

  足尾小は明治6年(1873)本妙寺に仮設し、明治34年(1921)に現在の場所に校舎を建てました。校舎は何度か火災にあって、昭和35年(1960)ら全校舎が焼失しました。その後、鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成し、その時の教室は30教室、その他が15室もあったそうです。昭和48年(1973)の銅山閉山後、人口が減り、児童数が大幅に減少しました。
 学校に隣接して、足尾公民館がありますが、現在は一部を児童クラブが使用しているだけです。この敷地には、足尾高等女学校が建てられていた場所です。

足尾銅山物語③

 幕府直営の銅山として 
 順調に産出していた銅山にもかげりがみえ、銅のねだんが安く、山師という人たちを排除したため、一番とれたときからでは、十分の一にまで減ってしまいました。また、たびかさなる洪水で被害を受け、火事で1000件が焼けました。
 幕府は、困っている山元を救うために「銭座」の許可をあたえ、「寛永通宝一文銭」というお金をつくりました。この一文銭の背面に「足」の字がしるされたことから「足字銭」といわれました。1742年~1747年の6年間に、約2億千万枚もつくりました。このような幕府の保護政策にもかかわらず、銅山はきゅうげきにおとろえて、1844年頃には休山じょうたいになってしまいました。「足尾博物誌」より簡略化

 
  学校の近くにある記念碑「足字銭と鋳銭座跡」 

足尾銅山物語②

 精銅の生産が認められた国内唯一の銅山 「足尾博物誌」より(簡略化)

 幕府は、銅山奉行の代官所を設け、銅山を開発し、銅の精錬(せいれん)が行われていました。足尾の銅瓦は、江戸城、芝増上寺、日光東照宮などの建築にも使われました。
 1649年、足尾銅を江戸まで運ぶために、銅山街道(あかがね街道)がもうけられました。このころは足尾銅山のもっともさかんなときでした。1676年からは、オランダや中国にも出荷していました。「足尾千軒」と言われるほど、多くの銅山関係の人が住んで、大変なにぎわいをみせていました。 

    校内にある「黄銅鉱」

足尾銅山物語①

足尾町閉町記念「足尾博物誌」という本を読むと、足尾のことが様々な角度から書かれています。その中でも、「足尾の歴史は、銅山の歴史そのものといっても過言ではありません。」と書かれている「足尾銅山物語」から、足尾の歴史について御紹介します。

 「足尾銅山のはじまり」(小学高学年が読めるように簡略化)
 江戸の初め、備前の国の農民が発見したとする「足尾銅山のはじまり」

 足尾銅山は1610年に備前国(びぜん・岡山県)で生まれた足尾の農民、治部(じぶ)と内蔵(くら)の二人が渋川(しぶかわ)をさかのぼり、黒岩山に登って、銅を発見しました。江戸幕府は銅山を幕府が直接支配することにしました。黒岩山は、発見した2人の生まれた国の名前をつけて「備前楯山(びぜんたてやま)」としました。
 しかし、それ以前から、足尾の銅がほられていたという記録はありました。