ふるさと足尾の歴史

足尾銅山物語③

 幕府直営の銅山として 
 順調に産出していた銅山にもかげりがみえ、銅のねだんが安く、山師という人たちを排除したため、一番とれたときからでは、十分の一にまで減ってしまいました。また、たびかさなる洪水で被害を受け、火事で1000件が焼けました。
 幕府は、困っている山元を救うために「銭座」の許可をあたえ、「寛永通宝一文銭」というお金をつくりました。この一文銭の背面に「足」の字がしるされたことから「足字銭」といわれました。1742年~1747年の6年間に、約2億千万枚もつくりました。このような幕府の保護政策にもかかわらず、銅山はきゅうげきにおとろえて、1844年頃には休山じょうたいになってしまいました。「足尾博物誌」より簡略化

 
  学校の近くにある記念碑「足字銭と鋳銭座跡」