ふるさと足尾の歴史

ふるさと足尾の歴史

とちぎの百様(ひゃくさま)

 県民の郷土愛の醸成(じょうせい)と本県のブランド力の向上を図るため、後世に残したい、大切にしたい、じまんできる本県の100の地域資源(ちいきしげん)を「とちぎの百様」として選定(せんてい)したそうです。その地図が学校にも届いています。
 百のうち足尾町にあるのは、29「足尾銅山」と93「わたらせ渓谷鐵道」の2つです。「足尾銅山」の感動ポイントには、「日本の近代化を支えた殖産興業(しょくさんこうぎょう)のシンボル」と書かれています。「わたらせ渓谷鐵道」の感動ポイントには、「トロッコ列車で渓谷(けいこく)のけしきを楽しむ」と書かれています。
  どちらも足尾にとって大切なものです。ほかにも足尾には、伝統があり誇れるものがたくさんあります。これから、このページで紹介していきます。
 

玄関にある宝物

 足尾小の玄関には、貴重な動物のはく製や昔の道具や写真が展示されています。その中に、閉校した学校で使われていた道具もあります。下の写真の右から「神子内小」「本山小」「原小学校」と書かれています。昔の学校で使われていた、大切な宝物です。
 

日足トンネルの長さは

 図書室で、「日光検定公式問題集」を見つけました。「足尾地域」の問題が21問ありました。第2問には、1978年に開通した「日足トンネル」の長さが何メートルかという問題です。本校の職員の多くは、このトンネルを毎日利用して通勤しています。
 選択肢は4つありますが、正解は2765メートルです。長いトンネルです。

足尾小学校の歴史③

  足尾小は明治6年(1873)本妙寺に仮設し、明治34年(1921)に現在の場所に校舎を建てました。校舎は何度か火災にあって、昭和35年(1960)ら全校舎が焼失しました。その後、鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成し、その時の教室は30教室、その他が15室もあったそうです。昭和48年(1973)の銅山閉山後、人口が減り、児童数が大幅に減少しました。
 学校に隣接して、足尾公民館がありますが、現在は一部を児童クラブが使用しているだけです。この敷地には、足尾高等女学校が建てられていた場所です。

足尾銅山物語③

 幕府直営の銅山として 
 順調に産出していた銅山にもかげりがみえ、銅のねだんが安く、山師という人たちを排除したため、一番とれたときからでは、十分の一にまで減ってしまいました。また、たびかさなる洪水で被害を受け、火事で1000件が焼けました。
 幕府は、困っている山元を救うために「銭座」の許可をあたえ、「寛永通宝一文銭」というお金をつくりました。この一文銭の背面に「足」の字がしるされたことから「足字銭」といわれました。1742年~1747年の6年間に、約2億千万枚もつくりました。このような幕府の保護政策にもかかわらず、銅山はきゅうげきにおとろえて、1844年頃には休山じょうたいになってしまいました。「足尾博物誌」より簡略化

 
  学校の近くにある記念碑「足字銭と鋳銭座跡」