ふるさと足尾の歴史

ふるさと足尾の歴史

足尾銅山物語②

 精銅の生産が認められた国内唯一の銅山 「足尾博物誌」より(簡略化)

 幕府は、銅山奉行の代官所を設け、銅山を開発し、銅の精錬(せいれん)が行われていました。足尾の銅瓦は、江戸城、芝増上寺、日光東照宮などの建築にも使われました。
 1649年、足尾銅を江戸まで運ぶために、銅山街道(あかがね街道)がもうけられました。このころは足尾銅山のもっともさかんなときでした。1676年からは、オランダや中国にも出荷していました。「足尾千軒」と言われるほど、多くの銅山関係の人が住んで、大変なにぎわいをみせていました。 

    校内にある「黄銅鉱」

足尾銅山物語①

足尾町閉町記念「足尾博物誌」という本を読むと、足尾のことが様々な角度から書かれています。その中でも、「足尾の歴史は、銅山の歴史そのものといっても過言ではありません。」と書かれている「足尾銅山物語」から、足尾の歴史について御紹介します。

 「足尾銅山のはじまり」(小学高学年が読めるように簡略化)
 江戸の初め、備前の国の農民が発見したとする「足尾銅山のはじまり」

 足尾銅山は1610年に備前国(びぜん・岡山県)で生まれた足尾の農民、治部(じぶ)と内蔵(くら)の二人が渋川(しぶかわ)をさかのぼり、黒岩山に登って、銅を発見しました。江戸幕府は銅山を幕府が直接支配することにしました。黒岩山は、発見した2人の生まれた国の名前をつけて「備前楯山(びぜんたてやま)」としました。
 しかし、それ以前から、足尾の銅がほられていたという記録はありました。

山の神と孝行猿

 本校の玄関を入ると、様々な物が展示されていますが、その中でも、本校の元職員が製作した「銅山の守り神 山ノ神」と「孝行猿」が目に飛び込んできます。この置物も足尾小学校の安全を見守っています。

 
      山ノ神              孝行猿

足尾の地名の由来

 「足尾」の地名のはじまり 
 地名の由来として「ねずみの話」があります。むかし、「勝道上人(しょうどうしょうにん)」という僧侶が日光のお寺にいたとき、ある日1匹のねずみが粟(あわ)やひえの穂をくわえて、どこからともなくあらわれたり姿を消したりしたので、上人はこの山奥に、粟やひえの穂があるはずがないと不思議に思って、このねずみの足にひも【緒】(お)を結んで目印にして、そのあとをつけてみると、山のふもとの方に人家がありました。そこで上人はここを「足緒」と名付けたのが、のちに「足尾」となりました。上人はそのあたりは僧が修行をつむのに適している土地だと考えました。その後、上人の弟子たちがこの土地へ来て、修行をつんだり寺をたてたりしたのが足尾のおこりだと言われています。
 一方、学問的には、地形的なことから山の高いところや山のふもとの延びたところを「尾」ということや山の峰(みね)つづきを尾根とよんだりすることから、この地名がつけられたのであろうとみられています。
 足尾の近くに細尾(ほそお)や粕尾(かすお)としいう地名があるのも興味深いことです。また勝道上人とゆかりのあるねずみが入ったという「ほこら」が大黒橋のたもとにあり、現在は「波之利大黒天(はしりだんこくてん)」としてまつられています。                   (2006年発行 「足尾」より)  

足尾小学校の歴史②

 足尾小学校の図書室の後方に写真が展示されています。「足尾小に生きている学校」というタイトルが付いています。足尾小学校の写真のほかに、本山小学校・原小学校・神子内小学校・横根山分校・小滝小学校の写真があります。これらの学校は閉校などになったため、旧足尾町にある小学校は、足尾小学校だけになりました。
 

足尾小学校の歴史①

 現在の足尾小学校は児童数が少ないですが、昔の写真を見ると多くの児童が学んでいたことがわかりました。歴史と伝統のある足尾小学校について、これから調べて紹介していきます。

「足尾町 閉町記念 足尾博物誌」より抜粋
 学制発布の翌年の明治6年(1873)年8月、本妙寺を借用して足尾で初めての学校「足尾学舎」を開いたのが始まりで、創立当時の児童数は84名でした。その後、銅山の発展とともに児童数はうなぎのぼりに増え、大正末期から昭和30年代までの最盛期には1500~2000名を数えるマンモス校となりました。
 
  マンモス校だった頃の足尾小学校