3年総合「杉並木を知ろう」

 日光杉並木街道(にっこうすぎなみきかいどう)
 日光杉並木は日光・例幣使(れいへいし)・会津西(あいずにし)の3つの街道、全長(ぜんちょう)37Kmの両側(りょうがわ)に約12,225本(H30年度)がうっそうとそびえています。徳川家康(とくがわいえやす)(1542年~1616年)の忠実(ちゅうじつ)な家臣(かしん)松平正綱(まつだいらまさつな)が1625年から植え始め20年ぐらいの年月をかけて20万本ぐらいの杉を植えました。家康の33回忌(かいき)にあたる1648年に日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に寄進(きしん)しました。その後、息子の正信(まさのぶ)が寄進碑を建て、杉を植え足しました。
 現在、日本でここだけ「特別史跡(とくべつしせき)」と「特別天然記念物(とくべつてんねんきねんぶつ)」の二重指定(にじゅうしてい)を受けています。また、平成3年にはギネスブックによって、世界一長い並木道(なみきみち)として認定(にんてい)されています。植え始めたから約390年、高さ約30mにもなった杉の木は、日光市の歴史を見つめ、さまざまなエピソードを加えながら、未来へと受け継(つ)がれています。

杉並木街道名所案内地図(以下、題の番号は下の地図と一致している。)


②並木寄進碑(なみききしんひ) ア 日光市山口

 日光杉並木の由来(ゆらい)が書かれた石碑(せきひ)で、日光東照宮の神橋(しんきょう)近くの街道の起点(きてん)(はじまり)と3街道それぞれの終点(しゅうてん)にあります。

 徳川家康の忠実な家臣だった松平正綱(まさつな)が街道に並木を植えて、東照宮に寄進(きしん)したことが記(しる)された石碑です。並木の起点となる神橋湖畔(こはん)と街道の切れる日光市山口(日光街道)、日光市小倉(例幣使街道)、日光市大桑(会津西街道)の4カ所に立っています。この石碑は日光神領(しんりょう)の境界(きょうかい)に立てられているので、境石(きょうせき)とよばれています。この石碑を立てたのは、正綱の子である正信である。
        
石碑の右側面に特別史跡(昭和27年指定)、特別天然記念物(昭和31年指定) 日光東照宮を刻(きざ)まれています。
昭和42年3月11日に日光東照宮が立てたと刻まれています。

イ 日光市小倉(こぐら)


山口同様に刻まれている。

山口と同様のことが記されている。

鹿沼市と日光市に境界に寄進碑がある。

ウ 日光市上鉢石(かみはついし)(日光東照宮前)


 

 山口や小倉と同じようなことが書かれているが、正綱だけでなく子の正信のことも記されています。また、3街道のほかに御成街道(おなりかいどう)と記されています。御成街道とは、将軍が日光東照宮参拝(さんぱい)のときに利用した街道です。また、この碑は1648年正信が建てたと記されています。

他の3カ所より立派な感じがします。
 
日光東照宮の手前、神橋近くに石碑が建っています。

③ 砲弾打ち込み杉(ほうだんうちこみすぎ)
 江戸時代が終わり、明治時代は始まったとき1868年、明治政府軍(めいじせいふぐん)(官軍とも言う)と旧幕府軍(きゅうばくふぐん)が激突(げきとつ)した戊辰戦争(ぼしんせんそう)のとき、官軍が放(はな)った大砲の砲弾が貫(つらぬ)いた跡(あと)が残る杉です。
 

 戊辰戦争のとき、日光による旧幕府軍を攻撃したさい、前哨戦(ぜんしょうせん)(本格的な戦いに入る前の手始めの戦い)を行った所だと記されています。

続きもご覧(らん)ください。
⑤ 一里塚 ア 水無(みずなし)一里塚(日光街道)
 一里塚は、旅行者の目印(めじるし)として大きな道路の両側(りょうがわ)に1里(約3.927m)ごとに設置(せっち)した塚(つか)です。塚の上に、榎木(えのき)や杉、柿などの木を植えたり、標識(ひょうしき)を立てたりしていました。その木陰(こかげ)で旅人が休息(きゅうそく)を取るように配慮(はいりょ)されていました。また、植物の根がはって、塚が崩(くず)れるのを防(ふせ)ぐ意味もありました。一里塚の大きさは、約9m四方、高さ約1.7mに土を盛(も)り上げて作られました。
 一里塚の本来の姿は、街道の両側に対(つい)で設置(せっち)される物です。日光の一里塚は両側に残っている物が多いです。しかし、現在でも残っている一里塚の多くは道の片側にのみ存在することが多いです。
 
 3つの杉並木街道の一里塚には、杉が植えられています。しかし、植えられた当時の杉が残っているのはまれです。

 江戸(えど)(今の東京)から日光までの36里ぐらい(144km)の街道は日光道中とよばれ、その昔、日光東照宮に参拝(さんぱい)するための街道として栄(さか)えました。街道には、1里ごとに塚を築(きず)き、その上に大樹(たいじゅ)が植えられ、旅人に道のりを知らせましたと記されています。
イ 板橋(いたばし)一里塚(例幣使街道)

 長年の風雪にさらされ、塚が小さくなってしまっている。
 

ウ 室瀬一里塚(例幣使街道)


⑥ 和尚塚(おしょうづか)(無名戦士(むめいせんし)の墓)
 野ざらしにされた旧幕府軍(会津藩士(あいずはんし)など)の遺骸(いがい)約25名を、見かねた地元民が埋葬(まいそう)したところです。今市の戦いでは、100名をこえる者が戦死(せんし)しています。その以前に行き倒(だお)れた僧侶(そうりょ)をほうむったところから「和尚塚」と言われています。
 
祠(ほこら)や水を入れる皿があります。 見ずらいですがこの盛り上がった土の中に埋葬(まいそう)されています。

 和尚塚の場所は日光ホンダのディーラーの前の道を挟(はさ)んだ反対側です。

⑦ 桜杉
 杉の割れ目に山桜が着生(ちゃくせい)し、1本の樹木として生長している物です。
 

⑧ 並木ホテル(七本桜(しちほんざくら)一里塚)
 根元に大人4人が入れる程の空洞があるためこの名がついています。実は、この木は、1里塚の植えに植えられた杉で、この辺りでは、最も大木になっています。反対側にも一里塚があり、後から植えられた細い杉が生えています。 
 

七本桜1里塚
 
木の根元がうろになっており、野宿(のじゅく)ができそうな広さである。
 
うろの中から、上を見ると焼け焦げて炭になているように思える。場所は栃木トヨタ日光店から道を挟んで反対側です。

⑩大沢御殿跡(ごてんあと)
 日光社参に向かう将軍の休息所として山をくずして造られた、壮大(そうだい)な館跡(やかたあと)です。3代将軍徳川家光(いえみつ)も使用しました。
 
林の所(大沢林業の安西さん宅)と手前の削って造った田の所に大沢御殿がありました。
 
大沢のセブンの北側にあります。」

⑪ 十石坂(じっこくざか)
日光東照宮の鳥居運搬(とりいうんぱん)の人夫(にんぷ)が十石の米を食べて、この坂をこえたと言われています。(一石が150kgなので、1500kgの米が食べられた。)


⑫ 地震坂
 1949年12月26日に旧今市市(現在の日光市)鶏鳴山付近(けいちょうざんふきん)を震源(しんげん)とする地震で8時17分にM6.2と8時24分M6.4の地震が8分の感覚をおいて続けて発生しました。震源に近い、今市市付近では震度6相当のゆれと推定されます。この地震によって、立っている杉並木もろとも押し流されてできた坂です。
 
推測ではあるが、表札の立っている辺りが、地滑(じすべ)りでずれた部分で、ずれ幅は、ちょうど道幅程度であったと考えられる。 


  参考文献 
 「今市なんでも百選ガイドブック」平成9年3月発行 今市市(現日光市) 
 「いまいち市史 通史編Ⅱ」平成7年3月31日発行 今市市役所(現日光市役所)
 
  令和元年11月1日  歴史好きな理科教師 建二作成