校長室だより

校長室だより

「諸行無常から日々是好日へ」

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」
これは平家物語の冒頭文です。祇園精舎の鐘の音は、この世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれています。
 令和2年度は、本当に変化の多い1年間でした。4月には、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、3日間登校した後、約2か月間の臨時休業となりました。学校には子どもたちの姿はなく、教職員も交替で在宅勤務をしました。その後、分散登校という一斉に登校しない登校日を経て、6月1日に学校は再開されました。登校時には体温を測り、常時マスクを着用する。いつもまわりと距離を保つソーシャルディスタンス。再開直後は、とまどっていた子どもたちも次第に慣れていきました。校外学習など、当たり前の教育活動が制限されて、徐々に落ち着きを取り戻したのは、2学期が始まった8月下旬でした。修学旅行、宿泊学習を工夫して実施したり、校庭で歌を歌ったり、1人分ずつ調理実習をしたりして、学校の日常を取り戻す日々となりました。しかし、様々な状況が変化し、その対応に追われる日々でもありました。その影響で、ふるさと大運動会や小来川文化祭は実施できませんでした。大きな行事のなかった学校の時間は、諸行無常の響きにつながるような気がしていました。
 諸行無常の響きの中で出会った言葉が、「日日是好日(にちにちこれこうにち)」です。「日々是好日」は雲門禅師の悟りの境地を表した言葉です。今日はよい日だ悪い日だというこだわりやとらわれをさっぱりと捨てて、その日1日をただありのままに生きる、清々しい境地です。この一瞬を精一杯に生きると言うことです。その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素晴らしい一日となるはずです。「〇〇はできない」から「〇〇はこうしたらできる」と、気持ちが前向きになってきました。この1年間は、その日その日、1時間1時間を大切に過ごした1年間にもなりました。
 このようなコロナ禍の中で教育活動に集中できるのも、教育振興会長様をはじめとする振興会の会員の方々、小来川の地域の方々の支援によるものが大きいと感じています。多くの支援により、子どもたちは充実した教育活動を行うことができました。また、スクールガード・図書ボランティア・お掃除し隊などのボランティアの方々も、様々な配慮をしながら活動をしていただきました。そして、学校を理解し支援してくださる保護者の方々の協力を得て、学校は今年度1年間、無事に過ごすことができました。ありがとうございました。
 まだまだコロナ禍の影響は続くと思われます。臨時休業中に、校長室の文書を整理する機会がありました。小来川学報についても、「村と学校」の創刊号から目を通すことができました。その発刊の辞が目にとまりました。
「人間の住む世界の歴史を振り返って見ると幾度か大きな変わり方をしている。(中略)我々は学問と生産と生活を一体とする建設的教育に立ち上がらねばならない。性急に立ち上がる前に暫く我々の足下を見ようではないか。」
 現在の私達もしっかりと足下を見る機会をいただいているのかもしれません。これからしっかりと立ち上がるために、今後の行くべき先をしっかりと見極める時間をいただいているのでしょう。この一瞬を精一杯生きることで、前に進んでいける気がしています。

「始まりと終わりを意識する」

 令和2年はコロナで始まりコロナで終わった1年でした。令和2年を振り返ると、職務上、行事や集会などで児童生徒に話す機会があります。新型コロナウイルス感染症についても話しましたが、令和2年に話したことで一番心に残った言葉は、「始まりと終わりを意識する」でした。「大人になってこまらない自分コントロール」という本を紹介した時です。自分の分身となる脳をうまく使うと、自分自身がコントロールできる内容でした。
 自分をコントロールする方法の1つとして、しぐさを意識するとうまくいくことが紹介されていました。「~したら、~する。」「水道で水を出したら、最後まで止める。」「ドアを開けたら、最後まで閉める。」「くつをぬいだら、くつをそろえる。」始まりと終わりを意識すると言うことです。意識してみると、様々なことが見えてきました。例えば、1日の始まりと終わり。朝は様々なことをしています。朝食を食べたり着替えたり顔を洗ったり。1つでも忘れてしまうと、1日がぼんやりしてしまうようです。終わりは1日のことを振り返り、反省したり自分で自分をほめたりしていました。
 始めるときは、意識しているような気がしますが、終わりを意識することは少なかったように感じました。始めるときに、終わりを意識して始めるとうまくいくような気がしてきました。12月には、管理栄養士さんに健康管理について指導いただく機会がありました。約半年間で、体重を減らしてより健康な体になることを一緒に計画しました。終わりを決めているので、がんばれるような気がしています。コロナ禍も終わりが意識できると、がんばれる気がしています。

「見える化」

 今年度は新型コロナウイルス感染症の影響で、学校は大きく変わりました。臨時休業中は、教育活動について考える日々でした。そこで思い立ったことは、意識することの見える化です。よくダイエットなどをするとき、目標体重を紙に書いて貼っておくように、意識したいことを、紙に書いて貼ってみました。
 現在、職員室には人権集会で話した「自尊感情」が掲示してあります。校長室には、書道教室で指導いただき、自分で書いた書道が掲示してあります。
「普通の人は、普通に生きているのが1番幸せです。しかし、普通に生きていくのが、1番難しい。」
 コロナ禍の今、普通に過ごすありがたさを感じています。制限はあるけれども、精一杯生きたいと思っています。

「ほこらしいという気持ち」

 「グローバル化」という言葉が、教育現場で使われるようになって久しくなります。情報通信技術や交通手段の発達により、人・もの・情報の動きが活発になり、私達の意識はは大きく外に向いていました。そのような中、令和2年度は、コロナウイルス感染症拡大防止のため、外への意識が一気に止まったように感じました。4・5月は、臨時休業、自粛生活や在宅勤務などで、私達の意識は外から内に向いてしまったようです。
 12月の集会では、「ほこらしい」という気持ちについて話しました。人権週間にあわせて、たくさんの気持ちの中から「ほこらしい」という気持ちを取り上げてみたのです。本校の人権教育の実践課題の中で、「自尊感情を育む教育活動の工夫」があります。自尊感情とは、自分自身をかけがえのない存在として認め、欠点も含めて自分自身を好きになる感情のことです。自分らしく生きようとする自分を受け入れることにより、まわりの人を、自分と同じようにかけがえのない存在として認めることにつながります。
 「ほこらしい」気持ちがもてれば、失敗してもまたがんばろうとしたり、人を信じて、人に助けを求めたりすることができます。自分のだめな部分を見せることもできます。まわりの人に対する思いやりも深くなります。内への意識は、マイナスだけでなく、こうした気持ちにつなげることも考えられます。
 日本の若者は、「自分自身に満足しているか。」という質問に対して、肯定的な回答が少ないと言われています。それは、年齢が上がるにつれてもっと低くなるそうです。コロナ禍の今、しっかりと自分と向きあって、「ほこらしい」自分をもってほしいと願っています。

命を考える

 11月の初めに読書週間がありました。その中で、読み聞かせをする時間を設定していただき、小学生に何冊かの本を読みました。テーマは「命」です。その中で、「電池が切れるまで」という本から「命」という詩を紹介しました。「命」は、長い闘病生活の末に短い生涯を終えた11歳の女の子が、亡くなる四か月前に書いた詩です。その一部を紹介します。
「命はとても大切だ
 人間が生きていくための電池みたいだ
 でも電池はいつか切れる
 命もいつかはなくなる
 電池はすぐにとりかえられるけど
 命はそう簡単にはとりかえられない」
生きたいという気持ちがまっすぐに伝わる詩でした。長野県立こども病院の院内学級で学ぶ子どもたちの詩と絵は、私達の心にまっすぐに響いてきたように感じました。
 現在は、コロナ禍という思うように生活できないもどかしさを感じています。様々な場面で、今までの当たり前が失われています。学校生活も同様です。こんな時だからこそ、日常の生活を無事に過ごすことができていることが、本当にありがたいことであると、改めて確認することができました。
 学校では、予定していた行事も、中止や変更になったものもあります。でも、修学旅行などの校外学習の一部が再開されました。学校でも日常のありがたさをしみじみと感じています。